2022年6月4日に開催された講演会の内容が、毎日新聞6月12日付に掲載されました。
(下の写真をクリックすると拡大されます。)
*直野章子 准教授の講演(要旨)
2022年5月中旬時点でウクライナから約620万人が国外に避難し、うち280万人が子どもとみられます。被害は深刻です。ウクライナの背後に、さらに世界中の子どもたちが紛争下にいることを忘れてはいけないです。アフリカや中東諸国は紛争や気候変動、コロナ禍などで苦しんできましたが、新たな戦争による食糧難でさらなる打撃となっています。
日本の歴史を振り返ると、第二次世界大戦下では米軍による日本本土爆撃に備えて「学童疎開」が実施されましたが、子どもと離れたくない親が迷うなかを政府が推進した結果、多くの子どもが孤児(戦災孤児)になりました。これもまた、長く残る「戦争の傷あと」になりました。
攻撃で受けた傷だけでなく、飢えや家族がバラバラになるなどさまざまな苦しみがあります。どうやったら子どもたちの気持ちを受け止められるか。子どもたちの声に耳を傾けることで何かが変わってゆくのではないでしょうか。
*大前治 弁護士の講演(要旨)
いま強調したいのは、「戦争は急に始まったのではない」ということです。1925年に治安維持法が制定されたとき、今からみれば「戦争への暗い時代の始まり」のはずですが、当時の街は華やかで活気にあふれており、明るいファッションや芸能や観光で日本中に明るさがありました。戦争は怖いものではなく、戦争によって豊かで明るい国ができると宣伝されました。そうしたなかで子ども時代を送ってきた人々が、やがて成人して暗黒の戦争世代を体験したのです。
「戦争が怖い」のではなく「戦争に反対する人々が怖いのだ」という宣伝もされました。戦争が嫌だという人は「アカ」「非国民」とレッテルを貼られました。そういう教育を受けた子どもたちが、やがて戦争で簡単に命を捨てる兵隊にされていきました。
1945年の戦争終結までに、沖縄の「ひめゆり学徒隊」(15~19歳)や、全国で特攻隊員などになった「少年飛行兵」(14~19歳)といった人々は、1925年に治安維持法が制定された後で生まれた人たちなのです。
政府は戦時中に「空襲から逃げるな、火を消せ」という防空法を施行しました。これは、「戦争や空襲は怖いものではない」という情報統制と一体でした。やがて空襲が始まると、「空襲は怖くない」という宣伝は嘘だとバレてしまい、「どんなに空襲が怖くても逃げるな、死ぬまで消火活動をしろ」という宣伝へと変容していきました。生まれたときから戦争一色のなかで疑問を持たずに育ってきた人たちは、戦争への疑問や恐怖を感じたときにはすでに「逃げることも反対することもできない」という状況に追い詰められていたのです。
今の社会が同じ轍を踏んでいないか。後世の子どもたちから「なぜ、あのとき戦争への流れに反対しなかったの」と言われることのないよう、私たちの生き方が問われています。

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*直野章子 准教授の講演(要旨)
2022年5月中旬時点でウクライナから約620万人が国外に避難し、うち280万人が子どもとみられます。被害は深刻です。ウクライナの背後に、さらに世界中の子どもたちが紛争下にいることを忘れてはいけないです。アフリカや中東諸国は紛争や気候変動、コロナ禍などで苦しんできましたが、新たな戦争による食糧難でさらなる打撃となっています。
日本の歴史を振り返ると、第二次世界大戦下では米軍による日本本土爆撃に備えて「学童疎開」が実施されましたが、子どもと離れたくない親が迷うなかを政府が推進した結果、多くの子どもが孤児(戦災孤児)になりました。これもまた、長く残る「戦争の傷あと」になりました。
攻撃で受けた傷だけでなく、飢えや家族がバラバラになるなどさまざまな苦しみがあります。どうやったら子どもたちの気持ちを受け止められるか。子どもたちの声に耳を傾けることで何かが変わってゆくのではないでしょうか。
*大前治 弁護士の講演(要旨)
いま強調したいのは、「戦争は急に始まったのではない」ということです。1925年に治安維持法が制定されたとき、今からみれば「戦争への暗い時代の始まり」のはずですが、当時の街は華やかで活気にあふれており、明るいファッションや芸能や観光で日本中に明るさがありました。戦争は怖いものではなく、戦争によって豊かで明るい国ができると宣伝されました。そうしたなかで子ども時代を送ってきた人々が、やがて成人して暗黒の戦争世代を体験したのです。
「戦争が怖い」のではなく「戦争に反対する人々が怖いのだ」という宣伝もされました。戦争が嫌だという人は「アカ」「非国民」とレッテルを貼られました。そういう教育を受けた子どもたちが、やがて戦争で簡単に命を捨てる兵隊にされていきました。
1945年の戦争終結までに、沖縄の「ひめゆり学徒隊」(15~19歳)や、全国で特攻隊員などになった「少年飛行兵」(14~19歳)といった人々は、1925年に治安維持法が制定された後で生まれた人たちなのです。
政府は戦時中に「空襲から逃げるな、火を消せ」という防空法を施行しました。これは、「戦争や空襲は怖いものではない」という情報統制と一体でした。やがて空襲が始まると、「空襲は怖くない」という宣伝は嘘だとバレてしまい、「どんなに空襲が怖くても逃げるな、死ぬまで消火活動をしろ」という宣伝へと変容していきました。生まれたときから戦争一色のなかで疑問を持たずに育ってきた人たちは、戦争への疑問や恐怖を感じたときにはすでに「逃げることも反対することもできない」という状況に追い詰められていたのです。
今の社会が同じ轍を踏んでいないか。後世の子どもたちから「なぜ、あのとき戦争への流れに反対しなかったの」と言われることのないよう、私たちの生き方が問われています。
