姫路市で「戦争と平和を考える会 2019」講演会が開催されました。大勢の方々が参加され、空襲被害者の森永常博さん、弁護士の大前治さんが講演しました。

*森永常博さんのお話
森永さんは、1945年3月13日の大阪大空襲で被災した体験を、次のように語りました。
「焼夷弾は怖いものだと思っていないから、上空で破裂して広がりながら落ちる焼夷弾を『きれいだなぁ』と見ていました。最初は、家の壁に付着した火の固まりのようなもの(布切れに火が付いて風で漂ってきたもの)を必死で消すことができた。しかし、そのうちに焼夷弾が家に突き刺さるように落ちてきたら、とても人の手で消せるようなものではない。猛烈な火が四方八方へ噴き出されるのです。これは危ないと思い、家族で逃げるしかないと思ったのです。」
「ところが警防団員だった父は『自分は逃げることはできない。火を消さないといけないから。みんな先に逃げてくれ。常博、家族のことを頼んだぞ』と言い残して家に残ったのです。」
「私たち家族は猛烈な火の海の中を、なんとか逃げ延びました。しかし父親は翌日に遺体で見つかりました。母は茫然と立ち尽くしました。まさに防空法の犠牲になったのです。人々が国の犠牲になる戦争は、二度と繰り返してはいけない。そのためにも、憲法9条を変えてはいけないと思います。
*大前治さんのお話
大前さんは、姫路空襲が市街地の軍事施設や住居密集地を標的にした戦略爆撃であったことを米軍資料から明らかにし、戦時中のポスター、おもちゃ、記事などを上映しながら、次のように述べました。
「戦争の足音が明確になる前から着々と、治安維持法や国家総動員法などが整備されてきました。そして、社会が華やかで豊かなうちに『怖くない戦争』『わくわくする戦争』のイメージが植え付けられました。」
「そして気が付いたときには、誰も戦争に反対できず、戦争から逃げられない社会になっていたのです」
「姫路城の天守閣が爆撃されず残ったのは偶然ではなく必然です。爆弾を無駄に使わず、市街地への絨毯爆撃によって最大の破壊効果を狙った結果です。もちろん米軍は姫路城の存在を知っていて、城の位置を標準着弾点の起算点(目印)にしていました。城に近接した軍事施設は徹底的に爆撃しましたが、ただグラウンドが広がっているだけの練兵場(姫路城の南に隣接)は攻撃対象から外れていました。天守閣も練兵場も、米軍がそこを破壊する意味がないと判断したのです。」
大前治弁護士(左)と、森永常博さん(右)
*戦争と平和を考える会 2019 講演会*
「避難 許されず 父は死んだ」
2019年8月17日(土)13:30~
姫路市民会館 3階 中ホール
*空襲被害を考える会